おつなの墓

 おつなは木地屋のむすめだといわれています。

若くして死んだとされるおつなの墓は、上沢の上流、「ななつがま」のわる場を越えていくと、

「さんじほら」というところが
ありますが、このほら下の沢の岸にありました。

ところが、昭和二十八年の災害で、おつなの墓は流れてしまい、いまはかげもかたちもなくなり

ました。

墓は流れても、このさとには、おつなをめぐるいろいろのお話が、語りつたえられております。

 ときは大正年間のことでした。

この上沢山からたくさんのざい木が、きり出されたことがあります。

このときのことですが、この山にはいるにあたり、地もとの人や、山の関係者の手で、おつな

の墓の供養が盛大にとり行なわれました。

 この墓の供養をたのまれた、当時の竜淵寺(和田村)の和尚さんは、けわしい道を越えて現

に出むき、ねんごろに仏のじょうぶつと、山の事業が成功するように祈ったといいます。

 もう一つこんな話ものこっています。

いまから二十年くらい前のことだといいます。

この流れたおつなの墓のあたりに、小屋を建てて炭をやいた二人づれの男たちがいました。

 ところが、夜なかになると、若いむすめのすすり泣く声がしたり、前を流れる上沢の水で、

せんたく物をすすぐ音がしました。

何しろ毎ばんのことですので、山の生活になれていた山男たちも、すっかりおじけづいて、

早ばやと山をおりたといいます。

 このようにおつなをめぐる話は、いくつかありますが、この墓のいわれや、そしておつなの

正体は全くなぞにつつまれたままです。 

 ただこんな話をしてくれたお年よりがいました。

「おつなは、まれにみる美しいむすめだったが、胸をやんで、十七歳で死んだちゅうことだ。

それだけにこの世に思いがのこり、行くところに行けんずら……。」

 これらの話をつなぎあわせてみますと、さとの人たちが、おつなの墓をおそれた理由も

いくらかわかるような気もしますが、ほんとうのことはわかりません。

 それを知っているのは、おそらくいまもコトコトと音をたてている、上沢の美しい流れだけ

ではないでしょうか。

 送り籏